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No弐-296 阪神・淡路大震災から27年

 1995(平成7)年1月17日午前5時46分、兵庫県・淡路島北端を震源とする大地震「阪神・淡路大震災」が発生しました。 

 1月13日(木)朝日新聞朝刊「震災を知るということ」で「母を助けようとした人がいた」の記事に感動したので、紹介します。

 

★遠ざけてきた「1・17」

・早川美幸さん(34)は2002年春、兵庫県立舞子高校の環境防災科に進学した。

 阪神・淡路大震災をきっかけに、この年に発足した国内初の防災専門学科。

・小学2年の時、その震災で母を亡くした。その日から笑うことを忘れ、毎年1月17日が近づくと気持ちが沈んだ。地震のことは、聞くのも嫌だった。

・環境防災科に入ったのは、すぐにでも就職したくて、福祉の勉強ができると勧められたからだ。しかし、「学校やめる」と科長に毎日のように言った。

 

★元消防士の講演

・入学して1か月ほどしたある日、垂水消防署副所長だった藤井章三さん(72)の講演が教室であった。

 

・阪神大震災で藤井さんは、消防士として、明石市の自宅から最寄りの消防署に向かう、あちこちで火の手が上がっていた神戸市長田区へ向かった。

・その後、西市民病院でのことを話している時に藤井さんのマイクを持つ手が急に震えた。

「1人だけ、助けることができませんでした」

・その日の夕方、藤井さんが病院に到着すると、5階部分が崩れていた。入院患者が多数、生き埋めになっていることが分かった。

・藤井さんの指示で、消防隊は削岩機で壁を壊し、ベッドとベッドの間に閉じ込められた患者を一人ずつ救出した。活動は、深夜1時ごろまで続いた。

・41人助けたが、あと1人、見つからない。病院からもらった名簿によると「長尾さん」と言う女性だった。同じ部屋にいた患者さんによると、揺れの直前に部屋を出たという。

・救助が必要なところもたくさんあり、次の現場に向かった。

 

・次の日、仲間から女性の遺体が発見されたと聞いた。藤井さんが担当した現場で、亡くなったのはこの人だけだった。

・隊員が何度も呼んだ「長尾さん」という名は、何年経っても耳に残っていた。その悔しさがよみがえり、藤井さんは生徒の前でぼろぼろ、涙をこぼした。

 

★変えてくれた元消防士の涙

・それを聞いていた美幸さんは、だんだん顔を上げられなくなり、うつむいた。

「これ、うちの親の救助にあたった人や」。おそるおそる隣に座っていた親友に小声で言った。

・美幸さんの旧姓は長尾で、「長尾さん」は母の裕美子さんだった。病院で入院していて、この日に一時帰宅する予定だった。

・思いがけず、母が亡くなった状況を聞かされ、美幸さんは胸が苦しくなり、その後のことは覚えていない。

 

・授業の終わりに書いた感想文の末尾に「学校やめるのをやめる」と記した。

 なぜだか分からない。母の命を助けようと最後まで努力した人がいたことを知ったからだろうか。

・藤井さんとは何も話さなかったし、その後も会っていない。ただ、その日から、確かに何かが変わった。

 

・2年生になり、先生に頼まれて、それまで決して話さなかった震災の経験を人前で話せた。

・他の震災遺児やグループとつながりができ、東日本大震災や中国・四川大地震の被災地にも招かれた。

 

・13年に結婚。今は3人の子どもにも恵まれ、家族5人で暮らす。

・長男は今年小学2年になる。美幸さんが震災を経験した学年だ。今日、あの震災のことを長男に初めて話すつもりだ。

 

 いかがでしたか?震災の経験はなくても、素敵な話は、ぜひ教材として学校現場でも語り継いでいきたいものですね。