昨日旅から帰ってきました。先ほどの写真は10月23日(月)にあった朝日新聞(山口版)にあった関門橋開通時の写真です。
★関門橋開通50年
・1973年11月14日、高速道路(関門自動車道)の一部として開通。この11月で50年。
・全長は1086mあり、つり橋としては完成当時、東洋一の長さを誇った。
・写真は開通前の11月9日、下関と北九州の市民から募って催された「関門橋歩行者見学会」の一コマ。1万8000人が歩いた。
翌日の24日(火)の朝日新聞(山口版)には「木戸孝允」の記事がありました。
「維新の3傑」の一人に数えられる長州藩出身の木戸孝允は今年生誕190年。伝記「木戸孝允」を出版した田口由香准教授(長崎大・明治維新史)のインタビュー記事でした。
その前に簡単におさらいです。
★木戸孝允のプロフィール
・1833年に現在の山口県萩市で、萩藩の藩医・和田昌景の長男として誕生。
・8歳で幼少期に生家の向かいに住んでいた萩藩士の桂家の養子となり、家督を継ぎ、桂小五郎と名乗る。
・1865年、藩主より「木戸」の苗字を賜る。
・1852年、19才で剣術修行のため江戸に留学。入門1年で塾頭。
・剣術のほか、洋式砲術やオランダ語を学ぶ。
・長州藩の代表として、1866年、薩長同盟を結ぶ。
・明治新政府で活躍し、五箇条の誓文を書き上げる。
・1871年、岩倉使節団の副使として欧米視察。
・帰国後、国内の政策の近代化を優先するよう主張。
・1877年、西南戦争の最中、京都で病のため満43歳で亡くなる。(病名は不明。胃がん、大腸がんの肝臓転移、急性心不全などといわれている。)
★木戸孝允のエピソード(新聞記事から)
・欧米列強による植民地化の危機の中、いかに日本の独立を守り、列強に対抗できる国をつくっていくのか、一貫して考えていた。
・松下村塾には通ってはなく、藩校の明倫館で松陰に兵学の講義を受けた。
・ペリー黒船来航時、幕府から藩に命じられた相模の警備に参加。西洋の技術や知識を持った江戸の人から教わることができたのが大きかった。
・実務的な知識をたくさん持つ現実主義者だった。
・対外交渉で力を発揮。薩長同盟でも、今必要なのは薩摩藩との提携が必要と決断、現実的な考え方ができる人物で藩の中での存在感は大きかった。
・幕府を倒すことが目的ではなく、あくまで近代国家をつくるための第一歩。
・1868年、藩主に版籍奉還を勧める。世襲には大反対だった。
・明治4年岩倉使節団に参加し、欧米を視察し、憲法や法律に基づく政治を各国で見て、憲法制定への思いを強くした。
・幕藩体制のように人による「主観的な政治」ではなく、憲法や法律に基づく「客観的な政治」が行われないといけないと考えていた。
・急激な改革は弊害を生むことを身にしみて感じていた。
・ひとつ前に進めたら次を進める。やみくもに近代化を進めるのではなく、斬新的改革派だった。
・慎重過ぎる性格で、一番上に立つタイプではなかった。
・剣の達人で眉目秀麗の秀才官僚。軍隊が政治に口出すことを許さなかった。
・維新三傑の中で木戸の人気は「いま一つ」と評価されるのは「西南戦争で戦死した西郷隆盛、暗殺された大久保利通と違い、畳の上で死んだためだ」と県内の人が悔しそうに語っていたことがある。
木戸さんが少し身近になりました。
「人の巧を取って我が拙を捨て、人の長を取って我が短を補う。」
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