· 

No弐-800 伊能忠敬から学ぶ

  1800号に達しました。早速、1800年を「Wikipedia」で調べてみると、「18世紀最後の年である」。さらに「できごと」には、「伊能忠敬、蝦夷を測量」と書いてありました。

 伊能忠敬といえば、「1800年から1816年まで、17年をかけて日本全国を測量し、『大日本沿海輿地全図』を完成させた」人ですよね。

 これをきっかけに、蝦夷地測量の様子を調べてみたくなりました。

 

・忠敬一行は寛政12年(1800年)閏4月19日、自宅から蝦夷地へ向けて出発した。

忠敬は当時55歳、内弟子3人(息子の秀蔵を含む)、下男2人を連れての測量となった。

・千住で親戚や知人の見送りを受け、奥州街道を北上しながら測量を始めた。

千住からは、測量器具を運ぶ人足3人、馬2頭も加わり、1日におよそ40kmを移動。

・出発して21日目の5月10日、津軽半島最北端の三厩に到達。

・三厩から船で箱館(現・函館市)へと向かうが、やませなどの影響で船が出ず、8日滞在。

・9日目に船は出たが、風の影響で箱館には着けず、松前半島南端の吉岡に船が着く、

・そこから歩いて箱館へと向かう。手続きの関係で8泊する。

 

・5月29日、箱館を出発し、本格的な蝦夷地測量が始まった。

・一行は海岸沿いを測量しながら進み、夜は天体観測を行った。

・蝦夷地の道は険しく、海岸沿いを通れないときは山越えをした。

・9月18日、蝦夷を離れて三厩に到着。そこから本州を南下し、10月21日、人々が出迎えるなか、千住に到着した。

・第一次測量にかかった日数は180日、蝦夷地滞在は117日。

 

 私も先週蝦夷地にいました。1800年の今頃、伊能さんも蝦夷地で測量していたなんて、なんだかタイムスリップしてみたくなりました。

 

★伊能忠敬エピソード

・1745年、千葉県の九十九里町で生まれた。幼い頃の名前は三治郎。

・17歳で酒造業や金融業、運送業を営む伊能家の婿養子になり、伊能家十代目当主になる。

・村役人や商家当主としても優秀で、現代で30億円以上の莫大な資産を築く。

・測量の道を進んだのは49歳。隠居が認められ、長男に家督を譲って50歳の時江戸に移り住む。

・隠居して江戸に出てきた時に学んだのは天文学。師匠は天文学者高橋至時(よしとき)。忠敬は当時50歳、至時は31歳。(19歳下)

・もともとは地球の外周を知りたくて始めた。

・蝦夷地の第1次測量からその後第10次測量まで、日本全国を測り続ける。

・17年間で歩いた距離は約4万km。(地球の一周が約4万㎞)

・彼が求めた地球の外周と、現代分かっている外周の誤差は1000分の1

・1816年の最後の測量が終わると地図の作成にかかるが、1818年74歳で亡くなる。

・彼の死は伏せられたまま、地図は1821年にようやく完成し、「大日本沿海輿地全図」と名付けられた。

・彼の地図が西洋諸国の当時の日本への認識を改めさせた。

 

 「歩け、歩け。 続けることの大切さ」という名言を残しています。刺激になりました。