現地を訪ねた広島クイズも平日なので、急きょ前半、後半に分けることにしました。そんなわけで、もう1日お付き合い下さい。
3日目は、江田島の宿から広島市内に向かい、原爆ドーム、広島平和記念資料館に行きました。日曜日ということで館内も混雑していました。
その後、広島バスセンターから福山へ。初めての鞆の浦に向かいました。
Q6. 鞆の浦も坂本龍馬と関係がありました。龍馬の乗った船が紀州藩の船と衝突して沈没しました。彼の乗っていた船の名前は何といったでしょう?
①いろは丸 ②海援丸 ③亀山丸
Q7. 鞆の浦は、寺院・神社が多い町でした、お寺はいくつあるでしょう?
①19 ②29 ③39
Q8. 鞆の浦を散策しているとあるものが飾られていることが多いのに気がつきました。何でしょう?
①猫の人形 ②鯛の人形 ③雛人形
最終日4日目は、尾道に寄りました。
Q9. 尾道は、映画のロケ地としてよく使われるのでも有名ですが、「おのみち映画資料館」にあった「東京物語」で有名な映画監督は誰でしょう?
①黒澤明 ②小津安二郎 ③新藤兼人
Q10. 商店街を歩くとある女流作家の名前が付いていました。誰でしょう?
①与謝野晶子 ② 壺井栄 ③林芙美子
Q6. 龍馬の乗っていた船は、③いろは丸。
いろは丸は、江戸時代末期、伊予国大洲藩(現在の愛媛県大洲市)が所有していた蒸気船。海援隊が借用し、慶応3年4月23日午後11時頃、いろは丸は最初の航海で瀬戸内海の備中・六島沖を航行中、紀州和歌山藩船・明光丸と衝突し、沈没。
その後は、土佐藩と紀州藩の事件に発展し、紀州藩が賠償金の支払いに同意。龍馬がいたのは4日間でしたが、賠償の交渉には、龍馬の交渉術が光ったそうです。
Q7. 鞆の浦のお寺の数は①19でした。神社は数十社あるそうです。
江戸時代初期、鞆城を築いた福島正則が、城下町整備の一環で「寺町通り」を造営。
各宗派のお寺がほぼ一直線に並べられ、沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)の参道へと繋がっていました。珍しい名前でしょ?
Q8. 鞆の浦を散策していると飾られていたのは、③雛人形
鞆の浦のひな祭りは、町家・商店などを中心に地元の方が協力して雛飾りを飾る人気イベント。その数は、およそ100カ所とも言われているそうです。ホテルにも飾られていました。3月末まで飾られてるようです。
Q9. おのみち映画資料館にあった「東京物語」の監督は、②小津安二郎。
ロケ地に尾道が使われました。久々にこの映画が観たくなりました。
小津監督の作品は、ロー・ポジションの撮影、カメラの固定、小道具や人物の配置に特別な注意を払ったことでも有名です。本物の小道具、衣装にもこだわりました。
演技指導も納得いくまでOKがでないので、現場はいつも緊張感があったそうです。
自ら脚本作りに参加し、ほとんどの作品には共作者がいました。
家族を題材に、親と子の関係や家族の解体などのテーマを描きました。必見です。
Q10. 尾道の商店街の名前は「おのみち芙美子通り」。③林芙美子
明治生まれの小説家・林芙美子が、尾道で少女時代を過ごしました。
芙美子は、1903年(明治36年)に北九州市門司区生まれ。幼少の頃から旅商いの両親と共に木賃宿を転々とする生活をしていたのですが、13歳の時に尾道に落ち着くことになります。
その後、尾道市立高等女学校へ進学し、卒業後上京。下足番、女工、事務員・女給などで自活していました。
関東大震災では、尾道や四国に疎開先を求め、つけ始めた日記が代表作「放浪記」の原型となりました。
1951年(昭和26年)6月28日、47歳の人生の幕を閉じました。心臓を患っていたのですが、死の前夜まで「私の食べあるき」という企画記事の取材で料亭を廻っていたそうです。
川端康成が葬儀委員長を務め、近在の市民が大勢参列したそうです。
使えそうな「まくら」ありますか?
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