プロ野球のオリックスの投手で、WBCの日本代表でもある宮城大弥投手をご存知でしょうか?彼が、スポーツを続ける子どもたちを支援する目的で、基金を設立している記事が先週3月1日(金)朝日新聞で読み、心に残ったので、紹介します。
★貧しかった少年時代
・沖縄県宜野湾市で生まれ育つ。
・アパート6畳1間。両親と妹の4人暮らし。
・冷蔵庫はベランダに出す。
・寝る時はテーブルをどかして布団を敷く。4人が床に並べず、両親が交代で座って寝る。
・おやつにするパンの耳をもらって帰ることもある。
・みんなゲームは持っていたが、なかった。
・自転車は買ってもらったが、パンクを直せないまま、学校に行く。修理した時は費用を安くしてもらう。
・誕生日プレゼントにケーキが出たことがある。ホールではなく、妹と2人分のショートケーキ。両親は「自分はいらないよ」。
・少ないけど落とし玉をもらうことが、毎年の楽しみだった。
・お金には恵まれなかったが、少年時代も含めて不幸だと思ったことがない。むしろ幸せだと感じていた。
・野球という好きなことをさせてくれたので、苦しいとまで感じなかった。
・周りから「貧乏だ」などと言われることもあまりなかった。
・外へ野球をしに行ったり、そのまま海に行ったり、お金がかからない遊びをしてくれるような子たちが多かった。(今になってみると、僕の生活状況を考えて遊んでくれたのかな)
★野球との出会い
・4歳の時、地元の少年野球チームの練習を見て、父親に頼み、翌日に連れて行ってくれる。
・初めて買ってもらったのは、右利き用の青いビニール製のグラブ。うれしくて、布団の中で抱いて寝た。
・軟らかくしようとした父親がレンジで温めて、溶けて崩れたグラブを見て大泣きした。
・中学から硬式野球のポニーリーグに所属。
・硬式野球のグラブは高額でなかなか買えず、軟式用グラブを修理しながら、小学5年から中学3年まで使う。
・スパイクは店で安くしてくれる。
・遠征がある時は遠征費の支払いが間に合わず、先に監督がお金を出してくれた。
・興南高校のエースとして甲子園で投げる選手に成長。
・2019年秋のドラフト会議で1位指名でオリックスに入団。
・20歳になり、宮城大弥基金を設立。
・22年のシーズンは、チームを日本一に導く活躍。
・今春、日本代表「侍ジャパン」のメンバーとしてWBCに挑む。
プロ野球選手になって、働くことの大切さを知り、改めて両親の存在が大きかったことを感じる。
★父親
・学生時代の事故で左手に障害を抱えていた。
・レンタカー会社で働いたり、畑仕事や葬儀屋でアルバイトをしたりして家計を支えた。
・高校時代は、朝はレンタカー会社、夜は興南高校の寮監として働く(夜~午前8:30まで)。
・たまに寮で会うと、「眠れないな」としか言ってこなかった。
・「自分が買いたいものも買えないし、それを我慢してまで仕事を続けてくれていたのはわかる。僕のために働いてくれていた」
・父は家族のためだったり、僕のためだったり、自分以外のことにずっと頑張っているイメージが強い。
・「たぶん好きなことを我慢してまでやってくれているので、自分の親ですけど素晴らしいなと思います」
・家庭環境が良くなく、ご飯も食べずに公園で遊んでいた名前も知らない子どもたちを家に呼び、ご飯を食べさせていたこともある。
★母親
・専業主婦で、学校から帰ると、いつも家にいてくれた。(夫の希望)
・ずっと優しくて、ニコニコしていた。怒られたことがほとんどない。
・「何というか、『優しい自由』という形なんです。優しさの塊でした」
・「大弥からおねだりをされた記憶がほとんどありません。反抗期もなかったです」
★基金を作った理由
・沖縄には、貧乏で食べることすらままならない子どもたちもいる。
・せめて、やりたいことがある子どもたちが、そこにかかるお金のことで悩まず、打ち込むことができればと願う。
・自分自身が野球をするにあたって、周囲からずっと金銭面で助けてもらったから、プロに入る前から、父親とずっと「恩返しをしよう」と話していた。
この記事をまとめていて目頭が熱くなりました。WBCでも宮城投手を応援しようと思います。
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