今日は大分・別府に来ました。熊本の霊厳堂・五百羅漢、阿蘇草千里、黒川温泉湯巡り、大分の原尻の滝、臼杵石仏を見学しました。
さて今日と明日は「市川團十郎」にスポットを当ててみます。きっかけは、11月20日(日)の朝日新聞「文化」欄に書かれてあり、歌舞伎には少し興味があるからです。
今年、十三代目が誕生し、350年近くも受け継がれていることがすごいと思いませんか?今日は、初代から7代目に注目してみました。
➀初代 市川團十郎(1660~1704)
・14歳で初舞台を踏む。最初は市川海老蔵を名乗ったが、1675年から市川團十郎を名乗る。
・立役を得意とし、「荒事」(超人的な力を持った英雄や神仏を表す歌舞伎の演技様式)を歌舞伎に導入し、江戸で絶大な人気を得た。
・成田山新勝寺に近い所の出身で、不動明王を深く信仰。新勝寺とは縁があったことが「成田屋」という市川宗家の屋号の由来。
・舞台上で共演の役者によって刺殺された(45歳)。
②二代目 市川團十郎(1688~1758)初代の長男
・初代團十郎が成田山新勝寺に子宝の願をかけて見事生れた子だったので「不動の申し子」といわれた。
・江戸っ子の絶大な人気を博し、荒事を洗練させ、代々受け継がれる礎を築く。
・荒事・和事のみならず、幅広い芸域をもち、隈取の技法や様式を完成させた。
・『助六』、『毛抜き』を初演。
③三代目 市川團十郎(1721~1742)二代目の養子(5歳で襲名)
・将来を嘱望されていたが、公演先の大坂で発病し、江戸に戻り2か月後に死去(22歳)。
④四代目 市川團十郎(1711~1778)二代目の養子(2回の養子)
・襲名前は敵役を得意とし、代々の團十郎のなかでも異彩を放っている。
・『景清』を初演。女形もよくして芸域が広かった。
・門弟を集めた演劇研究会を開催。次代に与えた影響も大きい。
⑤五代目 市川團十郎(1741~1804)四代目の子
・荒事の他、実悪、女形など様々な役柄をつとめ分け、芸域が広かった。
・どんな役でもくさらずに懸命につとめ、生活面も真面目で、多くの人たちから尊敬され「戯場の君子」とまで呼ばれた。
・六畳一間を借り、自分はザコエビ(鰕)だとして市川鰕蔵と名乗り、寂しい晩年を送った。
⑥六代目 市川團十郎(1778~1799)五代目の子
・花やかな美男役者で人気が高かったが、風邪をこじらせて急死(22歳)。
⑦七代目 市川團十郎(1791~1859)五代目の孫で六代目の養子。
・六代目團十郎が急死したため、翌年10歳で七代目市川團十郎を襲名。
・豪快ななかにも男らしい色気がただよう芸風で荒事をよくするほか、『東海道四谷怪談』の民谷伊右衛門のような悪役で人気を取った。「色悪」の領域を確立した。
・「歌舞伎十八番」を制定し、人気演目を独占し、2人の愛人とともに豪邸に住まい、人気役者としての派手な暮らしをした。
・天保の改革のあおりを受けて江戸を追放されたことでも有名。
・能を元に、今日の『勧進帳』を初演。市川宗家の権威をさらに一段高めた。
・愛人との子を含め七男五女にめぐまれた
皆さんは、何代目が印象に残りますか?七代目かしら?
初代の刺殺も驚きですが、四代目と六代目は早く亡くなったんですね。
「天保の改革」の時には、浅草に集住を命ぜられたり、市中を歩く際には、笠をかぶらなくてはならないなどといった規制も受けたそうです。
歌舞伎が、法的に被差別の立場から解放されたのは、明治維新後のことだったんだそうです。
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