「藤枝市郷土博物館・文学館(静岡県)で織田信長が、羽柴(豊臣)秀吉に宛てた書状の公開が始まった」という記事が、読売新聞(10月21日・25日)にあったので紹介します。
信長の秀吉宛ての文書の原本は、信長、秀吉に仕えた細川家や黒田家に残されたものを含めて数点しか現存していないそうです。
★三木合戦
・信長と敵対した毛利家を討つため、中国地方攻略の総大将に秀吉を派遣。
・秀吉は、天正6年(1578)年2月23日に播磨に到着。
・播磨三木城(現・兵庫県三木市)城主・別所長治(?~1580)は、存分(遺恨)を申し立て、城に立てこもった。
★存分(長治の不満)
・秀吉の播磨入り後、別所家の家臣らと毛利攻めの軍略を話し合う場が設けられた。
・秀吉は「大将」の自分が指示すると述べ、家臣に対する無遠慮に振る舞いに長治が怒った。(「別所長治記」)
★信長が秀吉に宛てた書状(3月13日)現代語訳
しかと申し遣わす。別所小三郎(長治)とトラブルがあったという話を聞いた。
どういう事情であろうか。怪しからぬことである。
別所はずっと忠誠を尽くしてくれている者である。
それをわきまえ、問題ないように処理することが大事である。
なお様子を報告してくるように。
★信長のイメージの変化
・「別所はずっと忠誠を尽くしてくれている者である」と評価した点が注目される。
・冷酷非道なイメージのある信長は近年の研究で、迷いや熟慮を重ねながら判断を下していくような一面があったと関心を集めている。
・書状にはトラブルを処理するよう秀吉に求め、長治の離反を避けたい信長の意向がにじむ。
・その後、信長・秀吉側と長治の関係は決裂。
★黒田官兵衛宛ての書状(3月22日)
・長治が敵(毛利)と協力したとみなし、秀吉と協力して長治を討つように。
・頑固な三木城に籠る長治に秀吉が行った兵糧攻めは、「三木の干し殺し」と称されたほどの熾烈を極めた。
・1年10カ月の戦いの末、長治は降伏。城兵の助命とひき替えに切腹。
・長治を討伐した秀吉は、天正8年(1580年)5月に播磨を平定し、姫路城を居城に構え、西国各地を攻略。
秀吉は、信長にどんな書状を送ったんでしょうね?
本当に長治は毛利側についたんでしょうか?
こんな想像から小説の構想が広がるんでしょうね?
子どもたちならどんな想像をするでしょう?
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