今週は、戦争をテーマに取り上げてきました。今日は、樺太、満州、シベリア・ウクライナの北方だけでなく、ビルマでの悲劇と空襲の計画変更についても紹介したいと思います。
★山本栄策さん(101)の話
・42年9月、東京農大を繰り上げ卒業し、陸軍に徴兵。
・44年3月、歩兵119連隊の上等兵として出征。
・任務は、米英から中国の物資支援を遮断するため龍陵(中国雲南省)の日本守備隊の支援。
・爆撃で16人を失った舞台は、龍陵に到着。近くの山に陣地を築く。
・連合軍から雨のような大砲からの砲撃。仲間は次々と倒れる。
・顔を半分吹き飛ばされて即死した者、手足がちぎれて「痛い、痛い」と叫ぶ者、首に爆弾の破片を受け「俺をひと思いに殺してくれ」と声を振り絞り、息途絶えた先輩。
・武器や食料の補給もなく、全滅を覚悟した時、撤退命令。
・マラリアにかかった仲間に「連れて行ってくれ」と懇願されるも、「すまない」と置き去りにするしかない。
・走って退去する際、足を滑らせ気を失い、40mの崖下に転落。地面のシダがクッションになり、一命をとりとめ、足を引きずりながらジャングルをさまよう。
・本隊にたどり着いた時、十数人いた部隊は全滅と知る。
・龍陵脱出後、ビルマの戦地を転々と移動。
・数十台の敵の戦車に対し、1人ずつ穴を掘って、その中で小銃と手投げ弾だけで応戦するが、穴が浅く、戦車に踏みつぶされる仲間の声。
・45年8月、ラングーン(現ヤンゴン)近くで、敵機の機銃掃射。右足の小指と薬指の骨が2本飛び出す大けが。
・3日後、野戦病院で終戦。戦死した多くの指揮官や戦友を思うと悔しくて涙がこぼれた。
・ビルマ戦線で13万7000人の日本軍人・軍属が戦没。
・45年6月、25歳で復員、滋賀県庁に入庁。農地開拓を担当。
・結婚後も戦地の惨状は頭から離れない。自分が生還したことの後ろめたさ。
・長年、戦争の話をするのを避けてきたが、戦争の記憶の風化が進むことの危機感から、80歳を過ぎた頃から、小学校で戦争体験を語る。これまでの講演回数約30回。
・昨年から戦争体験を基にした小説の執筆を開始し、今月ほぼ書き終える。
もう一つ、8月13日(土)の読売新聞「『侵攻』の後で ウクライナと戦後77年」の3回目が、米国屈指のビジネス書作家・ジャーナリストのマルコム・グラッグウェルさんの記事で、注目しました。
・米国人が第2次世界大戦を語る時、それは主に欧州でのヒトラーとの戦争を指す。
日本への原爆投下は知っていても、太平洋戦争で起きたことの多くは忘れ去られ、埋もれてきた。
・米軍は空襲にあたり、「高高度白昼精密攻撃」と「低高度夜間焼夷弾攻撃」の2つの戦略の間で葛藤。
はじめは、最新鋭の爆撃照準器が使える白昼、軍需工場などを精密爆撃にこだわったグループ(ボマー・マフィア)がいたが、日本上空のジェット気流と照準器に精度の問題で失敗に終わる。
これは技術の問題ではなく、兵士の訓練や実行に移す際の複雑さを極端に過小評価し、最新鋭の照準器とB29があるという楽観が原因で、今のロシアのウクライナ侵略でも同様な現象が見られる。
・後任の司令官は、気流に左右されない攻撃、乗組員の安全確保から、夜間に低高度から焼夷弾による無差別攻撃の戦略を選ぶ。
・一夜で10万人以上が命を落とした45年3月の東京大空襲以降、日本各地に焼夷弾が大量投下。
・マリアナ諸島から日本空爆が可能になったが、航続距離の問題から爆撃機は掲載物を捨て、できるだけ早く帰還しなければならなかった。
日本までの距離がもう少し短かったら、あの戦争は全く違った様相になっていたと指摘しています。
米軍は、空爆した都市の破壊率を記録していました。
★空爆都市破壊率(目標達成度)
①富山99% ②福井86% ③徳島85.2% ④福山80.9% ⑤甲府78.6%
⑥桑名75% ⑦日立72% 東京51% 横浜58% 大阪35.1%
攻撃方法が変更されなければ、この場所、この数値は大きく変わったのでしょうね。
「45年に起きた日本の現実は、軍の行動を抑制するには、どれほど道徳的な、政治的な努力が必要であることを教えてくれる。軍の意思決定者たちには、行動を導く道徳的な羅針盤が不可欠」と語っています。その通りだと思いませんか?
コメントをお書きください