今日も読売新聞朝刊の「北方の悲劇 戦後77年」からです。
今日は、8月14日の記事から「シベリアから生還 墓参33回」を紹介します。
★シベリア・ウクライナ抑留者
・ソ連は、満州などにいた元日本兵らをシベリアやウクライナの収容所に連行し、強制労働させた。
・抑留期間は最長11年。抑留者約57万5000人、死者約5万5000人。
・生存抑留経験者推定5000人弱。平均年齢99歳。(シベリア)
★横山周導さん(97)の話
・岐阜県坂内村(現・揖斐川町)で農家の次男に生まれ、幼い頃に真宗大谷派の寺で修業。
・43年5月(18歳)、満州で住職になると決意し、海を渡る。ハルピンなどで入植者に布教をしながら、開墾する暮らしは充実。
・44年10月、軍に入隊。満州東部で警備
・45年8月9日、ソ連軍の侵入。ゲリラ戦を指示され、山中に潜伏。ソ連兵の監視。
・8月24日、敗戦を知る。中国人の農民の格好をして、帰国する機会をうかがう。
・9月、捕虜。ソ連兵から「ダモイ(帰国)、トウキョウ」と繰り返し言われ、貨車に乗せられ、たどり着いたのは3重の鉄条網で囲まれたシベリア・コムソモリスクの収容所。
・現地では鉄道建設の強制労働。発破で岩を砕き線路を通す作業。仲間は爆破で飛んできた石が頭に当たり、死亡。
・食事は黒くてぼそぼそしたコーリャンのおかゆ。寒さと疲労、栄養失調。
・ささやかな安らぎは、戦友とのふるさとの話。前夜語った仲間は翌朝、冷たくなっている。
・死者が出るたび、袈裟を着て読経。冬場は氷点下40度の寒さで地面が凍り付き、春まで埋葬する穴が掘れない。遺体は作業用具を置く小屋に並べる。
・「次に死ぬのは自分か」。恐怖にさいなまれた。
・「帰国せよ」。抑留から約2年で開放。故郷岐阜県揖斐川町の勝善寺の住職として暮らす。
・妻子がいる戦友より先に帰国したことに負い目。
・支援団体の応募に応じ、83年初めての墓参り。ハバロフスクでの法要。
・60歳くらいの女性が小さな石板の前でうずくまり、泣きじゃくっていた。妻の元に帰れなかった夫の無念。待ち続けた妻の心情を思うと言葉がなかった。
・残りの人生は戦友の供養に使おうと決心。ほぼ毎年、各地の墓地に赴き、読経で弔う。
・ある時、1919年のロシア革命に乗じてシベリア出兵した日本軍が、イワノフカ村で多数の住民を殺害した事件を知り、慰霊の対象は日本もロシアも関係なくなった。
・墓参は高齢を理由に19年に最後を終え、36年間で33回。手紙のやりとりは続けている。
8月15日(月)読売新聞にもう一人のウクライナで強制労働に従事した人の話がありました。
★近田明良さん(96)の話
・東京都豊島区出身 3人兄弟の長男。
・1945年2月、召集令状が届き、19歳で陸軍入隊。満州の奉天で技術兵として自動短小銃の製造に携わった。
・玉音放送を聞いた日の夜、中国軍の夜襲を受ける。隣にいた戦友が息絶えた。
・9月ソ連軍によって武装解除され、部隊の400人が貨物列車に乗せられた。
・「ソ連兵に『ダモイ(帰る)』と言われて列車に乗せられ、着いたのがシベリア。私たちはそれにだまされた」
・バイカル湖の南側にあるガラドックに収容所に入った。
・冬を迎えても服は夏用のまま。セメント袋に穴を開け、頭と腕を通して氷点下20度の寒さに耐えた。
・朝と昼は雑穀がわずかに浮いたスープ。夜は拳より小さい黒パン。空腹のあまり、木の根を食べたこともあった。
・46年夏、ウクライナ南部のザポリージャの収容所に移される。破壊された発電所の復興工事の強制労働。
・父親が日露戦争で日本軍の捕虜になったウクライナ人の男性と出会った。父親は収容所では丁寧に扱ってもらったと聞かされた。「あなたも必ず帰れる」という男性の言葉は寒さと飢えが続く収容所生活で心の支えだった。
・48年11月下旬、3年9か月ぶりの故郷の土を踏む。同12月1日、自宅に戻った。
・帰国直後に「ソ連帰り」として就職差別を経験。抑留生活のことは口を閉ざす。
・3年後に結婚。娘が生まれると「苦しかった抑留生活と死んでいった仲間を忘れない」と毎年12月1日にはじゃがいも入りのスープと小さいパンを食卓に並べ、当時をしのんだ。
・老人会の仲間に頼まれ2016年に初めて体験を語る。その後小学校で語り部を続けている。
抑留生活がいかに大変だったかが分かりますよね。ウクライナ侵略なんて絶対あってはならないですね。
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