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No弐-508 満州の悲劇

  今日も読売新聞朝刊の「北方の悲劇 戦後77年」からです。今日は、8月13日の記事から「崩壊した満州国 一家離散」を紹介します。

★満州国

・1932年3月、現在の中国東北部に建国された日本の傀儡国家。

・推計人口は3000万人、日本人はわずか2%。

・日本政府は「誰でも20町歩(約20ha)の地主になれる」と開拓民を募った。

・その後、日本各地から満蒙開拓団などとして約27万人が入植。日本の敗戦とともに消滅。

・満蒙開拓団は、長大な国境線を防備する農民兼兵士という二重の役が課せられた。

 

★北村栄美さん(88)の話

・1941年6月、北村さん一家は長野県大鹿村を離れ、「満州国」に移住。

・両親と6人きょうだいの大家族(北村さんは上から2番目)。

・居住地区の周囲は土塀で囲まれ、四隅に設けられたトーチカ(防御陣地)は絶好の遊び場。

・高さ3mの雑草に覆われた原野を開墾し、3年後、ようやく水田らしきものができた。

 

・45年に異変。頻繁に飛んでいた飛行機を見なくなり、開拓地の周囲は静まり返った。

・日本軍は南方の戦地に移動し、開拓民は見捨てられた。

・間もなく各地の開拓団は、ソ連兵と暴徒化した現地の中国人からの襲撃。

・男性は徴兵、開拓地にいたのは女性と子どもばかり。

・ソ連兵の監視下に置かれ、略奪や暴行が続いた。

・食料は乏しく、毎日のように子どもが死んでいった。

 

・やがて、千裕さん(8)と洋子ちゃん(10か月)が病気になる。

・母は貴重な解熱剤を千裕さんだけに与えた。「薬を与えなければ洋子は育たない。今日から母さんと洋子のおかゆを千裕に食べさせなさい」

・約束を守らず、おかゆを与えると洋子ちゃんの青白い頬に赤みがさす。母から「いつまで妹を苦しめるな」とどなられる。

・洋子ちゃんは1週間後に息を引き取る。塩鮭の木箱に蓋をかぶせ、棺の代わりにした。

・穴を掘って埋葬しようとしたが、木の棒では深く掘れず、砂をかぶせた。

・数日後、様子を見に行くと母が遺体を抱きしめ「堪忍して」とむせび泣いていた。

 

・46年8月、栄養失調に陥っていた4歳の弟は中国人に預けられ、そのまま中国に残った。

・46年10月、日本への引き揚げ船で北村さんと兄は開拓地を離れ、長野県飯田市の親戚宅に身を寄せた。

・7年後の53年、母と妹の千裕さんが帰国。父親は戻らなかった。

 

・北村さんは、戦後、洋服作りをして生計を立てた。結婚し、子どもをもうけ、各地で体験を伝えている。

・「今も満州は第二のふるさと」としながらも、中国人から見れば、日本は侵略者だったと思っている。

・「私の母は子どもの命の選択を強いられた。戦争に翻弄されるのは弱い人たちだ。それを忘れないでほしい」

 

 8月16日(火)の読売新聞からもう一人の「満州 命がけの脱出」の記事を読みました。

★宇部友三さん(93)の話

・10歳の頃、家族でソ連国境付近に移住。

・師範学校に進学。軍事訓練の日々。

・1945年8月9日ソ連満州侵攻。開拓団の集落全員が呼び集められ、女性や子どもは避難。

16歳以上の男子は残って塹壕を掘って集落を守る。

 

・「死にたくない」と友人と馬車で逃走。飛び乗った列車が「林口」の駅に停車した時、ソ連機3機が上空に現れ、爆弾や機銃掃射が乗客に襲い掛かった。

・あちこちに血まみれの遺体が転がり、人々は散り散りに逃げた。

・残った乗客は、破壊された線路を修復し、都市部を目指した。

・たどり着いた新京(現長春)で家族と合流し、引き揚げ船の到着を待った。

・街では、若い女性はソ連兵からの暴行、男性も労働力として狙われる。

・宇部さんも路上で取り囲まれ、車に乗せられたが、押し込まれた家の窓から脱出。

 

・翌夏、故郷の鹿児島へ引き揚げる。駅前で魚を売って生計を立て、その後、大学を卒業し、小学校や特別支援学校の教員になる。

・家族にも教え子にも戦争の話はしなかったが、「戦争で起きた事実と、死んでいった人たちのことが忘れ去られてしまう」との危機感から、2006年に戦争体験の本を出版。

 

 戦争で起きた事実から目を背けてはいけないと改めて思いました。