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No弐-507 樺太の悲劇

 昨日は、久々に横井さんを思い出したので、今週は戦争に焦点を当ててみようと思います。

 読売新聞では、先週金曜日から「北方の悲劇 戦後77年」というテーマが3回連載されていました。

 今日は、8月12日の記事から「樺太にソ連 奪われた日常」を紹介します。

 1945年のソ連軍の侵攻は、8月中に樺太全域を占領し、約5000人が犠牲になりました。

 

★太田垣成子さん(94)の話

・生まれ育った北海道は、大陸での戦争と不況で疲弊。5人姉妹なのに布団は2枚。食事はカボチャやイモが入ったおかゆだけ。

・1938年(10歳)、一家で樺太の塔路に移住。樺太は別天地。街は商人や炭鉱労働者、子どもたちであふれ、おなかいっぱいご飯を食べることができた。

・樺太の真岡の高等女学校に進学し、「勉強よりお国のために」と率先して軍馬の餌の草刈りに励む。

 

・45年8月9日(終戦6日前)、ソ連軍は国境を超え、南下開始。

・学校には戻らず、作業場近くに移っていた実家に身を寄せる。

・街ではソ連兵による略奪や女性への乱暴が多発。

・外出した時(17歳)に、兵士に手をつかまれたが、「マレンケ」と言われ解放される。後に「小さい(マリンキー)」を意味するロシア語と知る。

 

・45年9月、北海道に密航できる船を探して南に向かう。

・ある夜、家族で浜辺を歩いていると、ソ連兵が乗った6台ほどの自転車のあかりが近づいてきた。「見つかったら殺される」―。引き揚げられた船の陰に身を隠した。

・隣には一番下の妹(10歳)がうずくまっていた。「もし妹が赤ちゃんだったら泣いて見つからないよう手をかけるか、あやすため外に出て一緒に殺されるしかない。どっちも選べない」

・ソ連兵が通り過ぎていく間、恐怖を押し殺しながら思った。「私は子どもなんていらない」

 

・同月、近くの海岸から小船に乗り、利尻島への脱出を果たす。

・戦後は道内の小学校に勤務。20歳で結婚したとき、「子どもは産まないよ」と夫に伝えた。

・世の中は、いつひっくり返るかわからないと身にしみていた。

・選択に後悔はない。それでも「戦争がなければ別の人生があったのだろう」とふと考える。

 

★木本孝(たか)さん(94)の話

・樺太の真岡郵便局の女性電話交換手として勤務。

・午前7時前、自宅で朝食をとっていた時、近所の人の声で侵攻を知る。

・港では5~6隻の軍艦が砲撃を開始。上陸した兵士が住民をなぎ倒した。

・家は銃撃でめちゃくちゃにされた。

・近所のあちこちに遺体が散らばり、血が川のようになって坂道を流れていた。

・襲撃に巻き込まれた勤務中だった同僚の電話交換手9人は青酸カリを飲み、命を絶った。

 

・2年後、北海道に引き揚げ、結婚。あの日の惨状は一日も忘れたことはない。

 

 私の母も年齢が同じです。母から戦争の頃の苦労話は聞いたことがありますが、こんな怖い思いをした話は聞いたことがありません。戦争の悲惨さは語り継ぐことによって子どもたちに平和を願う心を育てていかなければなりませんね。