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No弐-506 横井庄一さん

 昨日の「夏休み47都道府県なぞなぞ」はいかがでしたか?我が家も昨晩、居酒屋で家族で盛り上がりました。店の子まで参加してくれました。大勢で考えると楽しいですね。

 続きは今日の予定でしたが、週末の方が楽しめると判断し、伸ばすことにしました。

 

 今日は、終戦記念日。1年のうちでこの時期に戦争について考えてみるのもいいかなと思います。昨日の読売新聞は、横井庄一さんのことを取り上げていました。

 皆さんは、横井さんをご存知ですか?私は、当時中学生でこのニュースの衝撃をいまでも覚えています。

 

・終戦後も27年間米グアム島のジャングルで潜伏を続けた。

・横井さんが島民に発見されたのは1972年の1月24日。

・2月2日に帰国した当時は56歳で「恥ずかしながら帰ってまいりました」との言葉は流行語になった。

 

・愛知県で洋服職人をしていた横井さんは1941年、召集を受け、44年3月グアム島へ送られた。

・ほかの日本兵とともに島内で陣地構築などに従事していた時、米艦隊が現れた。

<撃たれっ放し。アメリカの船が海の深さを測っている。どこから上陸したらいいかと。

 ところが日本から撃つ砲がない。こんな惨めなことはない>

<(米軍の)艦砲射撃が1日のうちで20時間を超えた。ご飯を食べる3回やめるだけ。どんどこ撃ちっ放し>

 

・米軍は44年7月31日、グアム島へ上陸し、約3週間後に全島占領を宣言。

・日本軍は壊滅状態になり、横井さんら生き残った日本兵は、ばらばらになってジャングルに身を潜めた。

<何も食べるものがない。カエルを捕ってきて出汁にとって食べようと>

 

・45年8月、敗戦。島内でも、日本語で書かれたポツダム宣言の内容を伝えるビラが上空にまかれ、投稿のよびかけもあった。

<「戦いは終わったから速やかに帰ってこい」と。

 はっきりした日本語で「武器は捨てて、上半身裸体で帰ってこい」と>

<降伏したとは思わなかった。アメリカの謀略だと思って>

 

・終戦後も穴を掘ってジャングルに身を隠し、足跡を消しながら転々と逃げ回った。

・長く一緒に行動した2人とある時、小さな誤解からたもとをわかった。

・久しぶりに2人が暮らす穴を訪れると、並んで死亡し白骨化していた。

 

・その後の8年間は、ひとりぼっち。栄養失調と胃潰瘍を患った。

・イモ畑にもたどり着けず、はいずって穴まで戻る。

・誰にも頼ることができない生活の中で膨らんだのは、自分の役目や家族への思いだった。

<生きてきたのをわざわざ死ぬのもいまいましい。

 生きた証人として(グアムの様子を)訴えるのが私の役割。

 戦争の後始末をつけさせるために私を生かしているのだと思った>

 

・その後、「耐乏生活評論家」として質素倹約を訴える講演活動などを行い、晩年は陶器を作って静かに暮らした。

・家族にもほとんど語らなかったが、97年に82歳で亡くなる直前に、妻に漏らした。

「自分一人で生きて帰ってきて申し訳なかった。(穴で亡くなった2人と)一緒に帰ってきたかった」

 

  久々に横井さんを思い出しました。27年も隠れた生活なんて考えられないですよね。