· 

No弐-445  川端康成没後50年2

 今日も読売新聞朝刊(4月13日)「文化」欄「川端康成没後50年」の記事からです。

・川端は、社会の規範から外れたり、「ないもの」のように扱われてきたりした人々に心を寄せていた。

 

★私小説「少年」

・旧制中学の寄宿舎で出会った<美しい少年>との関係を赤裸々につづった私小説「少年」。一冊の本の形では約70年ぶりの刊行だが、発売わずか1週間で版を重ねた。

・「少年」は川端50歳の時の作。

・高校時代に<美しい少年>清野にあてた手紙を読み返し、

<お前の指を、手を、腕を、胸を、頬を、瞼を、舌を、歯を、脚を愛着した>

などと書いていたことに驚く。

・自らの心を<畸形(きけい)>とし、<清野少年と暮した一年間は、一つの救いであった。私の精神の途上の一つ救いであった>と記す。

 

★短編「十六歳の日記」

・幼少期に家族を次々亡くし、7歳からは目が不自由で寝たきりの祖父との2人暮らし。

・学校から帰ると祖父の小水を洩瓶に受け、夜中に何度も起こされる、今でいう「ヤングケアラー」としての姿だった。

・そんな暮らしは、川端の視線のあり方に強い影響を与える。

 

★代表作「伊豆の踊子」

・20歳の青年に旅先で出会った旅芸人らと心を通わしていく。

・旅芸人は当時、<物乞い>として蔑視されてもいたが、川端は彼らを分け隔てなく描いた。

・「川端は恋愛とも家族とも言いがたい、疑似家族的なつながりを表現していた」(小川公代教授・上智大)

 

★その他のエピソード(Wikipedia参考)

・幼い頃、一種の予知能力のようなものがあり、探し物の在り処や明日の来客を言い当てたり、天気予報ができたことで、便利がられ、「神童」と呼ばれることもあった。

・父親の虚弱体質を受け継ぎ、月足らずで生れたため、病弱で食が細く、祖母に大事に育てられた。

・入学すると〈学校で教はることは、ほとんどみなもう知つてゐて、学校がつまらなかつた。小学校に入る前から、私はやさしい読み書きはできた〉

・小学校5、6年になると、書物を濫読することに関心が向き、図書館の本は一冊もらさず読んでしまう。

・毎日のように庭の木に登り、樹上に跨って、講談や戦記物、史伝、冒険小説に親しんだ。

・茨木中学に入学すると、約一里半(約6km)の道を毎日徒歩通学し、虚弱体質が改善され、1年の時は「精勤賞」。

・中学2年頃から作家になることを志し、文芸雑誌を読み始め、本屋に来る目ぼしい文学書はほとんど買っていた。

 

・川端は無口で、鋭い眼が特徴的で、人をじっと長くじろじろと見つめる癖があることは、多くの人々から語り継がれている。

・川端は、とても親切で窮地にある人の援助や就職の世話をしたり、恩人の遺族の面倒を見たりといった話は多い。

 

★自殺の謎

・1972年(昭和47年)4月16日の夜、逗子マリーナのマンションの仕事部屋でガス自殺。長さ1.5メートルのガス管を咥え絶命しているところを発見される。72歳で永眠。

・死亡当時、死因は自殺と報じられ、それがほぼ既定となっているが、遺書がなかったことや、睡眠薬を常用していたなど死亡前後の状況から事故死とする見解もある。

・自殺説としては、①日本から滅びてゆく「もののあはれ」の世界に殉じた説、②交遊の深かった三島由紀夫の割腹自殺に大きな衝撃を受けた説、③老醜への恐怖説、④家事手伝い兼運転手の女性が辞めることを告げられた説、⑤ノーベル文学賞受賞後の多忙や重荷説、⑥盲腸手術後の体調不良、身近な人の立て続けの死亡説などが書かれてありました。