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No弐-444 川端康成没後50年1

 6月14日。実は今日は、川端康成が誕生した日なのです。読売新聞朝刊(4月12日、13日)「文化」欄に、「川端康成没後50年」の記事があったので、今日紹介しようと心に決めていました。

 

・1歳で父を、2歳で母を亡くし、10歳までに祖母と姉とも死別した川端には孤高の印象が強い。

★生い立ち(Wikipedia参考)

・1899年(明治32年)6月14日、大阪府大阪市北区で、開業医の父・栄吉と母・ゲンの長男として生まれる。

・1901年(明治34年)1月に父が肺病(結核)で死去(32歳没)。母の実家に移る。

・1902年(明治35年)1月に母が結核で死去(37歳没)。祖父母の家に、姉・芳子は母の妹の婚家に預けられ、離れ離れになる。

・1906年(明治39年)4月に小学校に入学。9月に祖母が死去(66歳没)。

・1909年(明治42年)7月に姉が死去(13歳没)。

・1914年(大正3年)5月に祖父が死去(73歳没)。孤児となり、8月に母の実家に引き取られる。

 

★交流エピソード

・川端を師と仰いだ三島由紀夫へのいくつもの書簡で、三島の才能をたたえ、励ましたように、筆まめで心温かい人だった。

・ともに新感覚派の旗手として活躍、無二の友人だった横光利一との最晩年の往復書簡からも深い絆が読み取れる。

・横光に「発掘の名人」と言わしめた川端は、岡本かの子ら新しい才能を世に送り出した。

・ハンセン病患者の北条民雄を差別せずその才能を見抜き、往復で90通に及ぶ文通で支えた。

・作家仲間が死ぬとその遺作を読み込み、亡き人への思いを込めて弔辞を読んだ。

・その準備のために体がやつれるほどだった。

・横光に川端が寄せた弔辞の結び<僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく>

 

★中島国彦名誉教授(早稲田大、日本近代文学館館長) の話

・大阪の茨木中学時代や上京後の第一高等学校時代に、姉のように慕った年上のいとこ・平田花枝との文通が優しい心を育んだ原点。

・川端はもらった手紙にこまめに返事を書いた。手紙で人とのつながりを大事に保持していたのだろう。

・弔辞でも全力投球で個人の思いを受け止めた。

・早くに家族を亡くしたがゆえに人との関係を大切にした。

・「人のために」が川端の原点だった。

・自分の作品を各時間は削ってでも時間と労力を人のために割いた。

・自分の世界を守るために色々なことを排除するのではなく、その全てを引き受けた人だった。

 

 道徳の時間や文豪道場の「まくら」にいかがでしょう? つづく