先日、国立劇場・小劇場で初めて文楽を観てきました。そこで今週末は、文楽を話題にしてみようと思います。
今日は、4月10日(日)の読売新聞「ニュースの門」の「文楽座 苦難乗り越え150年」からです。
★人形浄瑠璃の歴史
・江戸初期の1684年、竹本義太夫による「竹本座」創設に始まる。
・2度の黄金期がある。最初は「竹本座」と「豊竹座」が対抗した「竹豊(ちくほう)時代」。
・「曽根崎心中」の作者・近松門左衛門の死後、複数の劇作家による合作が主流となる。
・1746年からの2年間に三大名作「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」が初演された。
・2度目は明治に入ってから「文楽座」と「彦六座」が競い、「文楽・彦六時代」を築いた。
文楽座 美声の竹本越路太夫(二代目)
彦六座 ドラマ性のある語りの竹本大隅太夫(三代目)、鮮やかな撥(ばち)さばきの豊沢団平(二代目)
・2座は「三名人」の活躍と対照的な芸風で人気を二分した。
★文楽の歩み
・大阪で人形浄瑠璃を上演する一座が「文楽座」を名乗って、今年で150年を迎えた。
・文楽の名は、初代植村文楽軒(1751~1810)に由来する。淡路島出身で本名は正井与兵衛(嘉兵衛との説もある)。趣味が高じて素人に教えるようになった。
・江戸末期から明治にかけては趣味で義太夫節をたしなむ素人が急増。
・商家の旦那衆にとって劇場は社交や商談の場となり、義太夫節がたしなみに一つとして広がっていった。
・初代が稽古場を開き、二代目が設けた芝居小屋を三代目が移して、1872年「文楽座」と命名。
・明治の隆盛期は多くの一座が競い合ったものの、大正後期まで残ったのは「文楽座」だけ。
・やがて娯楽の多様化が進むと、浪花節や新劇、活動写真などに客を奪われ、斜陽化していく。
・経営難に陥った植村家は1909年、劇場と劇団、興行権を松竹に売却。
・拠点の劇場は火災と戦災で相次いで焼け、戦後は組合運動を発端に一座が分裂。
・1963年に国や大阪府、大阪市などの補助で文楽協会が発足。
・1984年大阪市で国立文楽劇場開場。
・今は通称で呼ばれることが多いが、国の重要無形文化財に指定された芸能名は「人形浄瑠璃文楽」。
・現在の演者84人は全員、かつての劇団名を残す「人形浄瑠璃文楽座」の座員でもある。
・国立文楽劇場(大阪)で今月、「文楽座命名150年」と銘打った記念公演の幕が開けた。
・今のしかかるのは、コロナ禍に伴う観客減。
・2020年度の国立文楽劇場の入場者数は約2万4000人(前年度の約2割)
・2021年度の推計も約5万5000人。
人形浄瑠璃と文楽の違いと歴史が伝わりましたか?明日に続く。
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