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No弐-156  メダリストから学ぶ17   

今日の「メダリストから学ぶ」は、競泳と車椅子ラグビーから2人を紹介します。

★競泳・山口尚秀選手のエピソード

・3歳の頃、知的障害を伴う自閉症と診断され、小学校から特別支援学校に通った。

・2016年、高1で出場した障害者スポーツ大会での泳ぎを見込まれ、選手の道に。

・本格的に競技を始めたのは2017年と言う新鋭。(競技歴4年)

・30㎝の大きな足を生かしたキックを武器に、すぐに頭角を現した。

・肉体改造に着手し、1日の食事を4食に増やし、ウエイトトレーニングにも注力。

・週6回の練習で多い時は1日約6000mを泳ぎ込んだ。

・19年の世界選手権100m平泳ぎで当時の世界新記録で制し、競泳日本勢の東京パラリンピック代表内定第1号になった。

 

・今年初めは、別人のように弱気だった。「もう代表を辞めたいです」

 金メダルを目標に猛練習に耐えてきたが、コロナ禍で大会が1年延期され、試合や合宿が中止されると、ふさぎこんだ様子で昨年末から練習を休みがちになった。

・もう一つ、落ち込む理由があった。昨年10月の誕生日に祖父がなくなったのだ。発達が遅かった山口選手をいつもかばってくれた。教員で共働きの両親に代わってプールに連れていき、水泳を始めるきっかけを作ってくれたのも祖父だった。

・練習に集中できない期間が1か月続いたが、普段はほめて伸ばすコーチからの叱責にハッとした表情を見せた。翌日からまじめに練習に取り組むようになった。

 

★車いすラグビー・池透暢選手のエピソード

・大学生だった2000年3月、中学時代の友人4人とドライブ中に車が街路樹に衝突し、炎上した。

・全身の75%をやけどし、左足は切断、左手の感覚も失った。

・同乗していた友人3人が亡くなったと母から知らされたのは事故から数か月後。

・「自分が一番つらいと思っていた。あいつらの分も精一杯生きよう」と心に決めた。

・2年半の入院生活で、皮膚移植などの手術は約40回に上った。

・退院後、車いすバスケットを経て、13年に車いすラグビーを始めると、2年後に代表チームの主将に就任した。

・16年のリオ大会は、正確なロングパスで日本史上初めての表彰台につなげた。「メダルを取って友人たちが生きた証を残す」という夢がかなった瞬間だった。

・リオ大会後、友人の墓参りをした。「よく頑張ったね」遺族たちは、友の分まで必死に生きてきた自分の気持ちを理解し、応援してくれていた。

「これからは自分のために生きてほしい」その言葉に心が軽くなった。

・「応援してくれる人の思いに応えられる選手になろう」18年秋、米国に渡って世界最高峰のリーグで腕を磨いた。

・今年2月の体力測定では、得意のロングパスの飛距離が20m前後から24mに。41歳になってなお、進化を続けて迎えた大舞台だった。

・金メダルを目指した今大会。目標に手が届かなかったことに悔しさを見せつつも

「たくさんの応援をもらい、全力でプレーすることができた。僕の中では今一番輝くメダルだと思っている」と胸を張った。

 

・1分3秒77。自身の世界記録を0秒23更新。

・自分の泳ぎを「ハイブリッドカー」にたとえる。自分には2つの動力源があり、     後半にはもう一つのパワーを出せると終盤の強さに自信があった。