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No弐-155  メダリストから学ぶ16

 今日も遅くなりました。車椅子ラグビーの銅メダルを喜びました。夜の車いす男子バスケットボールのスペイン戦が楽しみです。

 

★宇田秀生選手のエピソード

・2013年に結婚。その5日後、滋賀県内の建設会社の施設で、仕事中に利き腕の右腕をベルトコンベアーに挟まれた。

・お腹に第一子を宿した妻の「2人一緒だから何とかなるよ」の言葉に支えられた。 

・リハビリのために行った水泳をきっかけにトライアスロンを開始。

・小学校から大学までサッカーに打ち込んだスポーツマン(高校では滋賀県選抜)は、事故から2年後にアジア選手権で優勝するなど頭角を現した。

・苦手とするスイムは8番手と出遅れたが、バイクで巻き返して3番手でランに入ると、2位との約30秒の差を2キロ付近で逆転。

 

 他にも、走り幅跳び4位だった山本篤選は、高校生だった2000年にバイク事故で左太ももを切断し、高校卒業後に陸上を始めました。

 同じく走り幅跳び6位だった中西麻耶選手は、塗装会社で働いていた21歳の時、落ちてきた鉄骨の下敷きになり、右ひざから下を失い、2年後の北京大会に初出場し、200mで4位に入賞しています。

 

★米岡聡選手のエピソード

・10歳で網膜剥離を発症し、25歳でほぼ完全に視力を失った。

・ガイドは、健常者のトライアスロン選手で2024年パリ五輪を目指す椿浩平さん。

・椿さんから声をかける形で2年前の19年のレースからコンビを組んでいる。

・椿さんはスイムで一緒に泳ぎ、2人乗り自転車の先頭で後ろの米岡選手と息を合わせてペダルをこぎ、ランでは短いロープを握り合って走る。

・ともに第一線のアスリートだから「主役と裏方」ではなく、いわば「同志」。

・練習では厳しく言い争うこともあるといい、その助言は的確だ。

・「一人では絶対にたどり着けなかった」表彰式で、互いに銅メダルをかけ合った。

 

★ガイドの椿浩平さんのエピソード

・惜しくもトライアスロンの代表を逃したリオ五輪が開かれていた2016年8月、脳に腫瘍が見つかった。医師に「競技は諦めて」と言われた。

・手術は成功したが、悪性の髄芽腫と判明。放射線とがん剤を用いた治療が始まった。

・体重は45キロほどまで落ちた。退院時には15分歩くだけで筋肉痛になるほど弱っていた。その後、負荷の大きいトレーニングに打ち込んだ。

・18年日本選手権は29位。所属の監督から視覚障害のある選手に伴走するガイドの提案があった。「お前の頑張りも結果に直結する。自分の強化にもなる」と言われ、その場で心を決めた。

・「様々な状況を想定するクレバーさがある熱い選手」米岡さんは信頼を寄せる。

・3年後のパリ大会へ向けて「この経験があったからこそ行けました、と結果を示せるように頑張りたい」と語った。