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No弐-58  承久の乱

 一昨日の「変わる歴史教科書」をきっかけに5月13日(木)の読売新聞朝刊「文化」欄に「承久の乱800年 新解釈や資料発見」の記事があったのを思い出しました。

 

 承久の乱は、1221年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱でした。確かに今年で記念すべき800年ですね。

 武家政権という新興勢力を倒し、古代より続く朝廷の復権を目的とした争いで、日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いと言われています。

 朝廷側は敗北し、後鳥羽上皇は隠岐に流され、鎌倉幕府は、朝廷の権力を制限し、京都に朝廷を監視するために六波羅探題を置き、皇位継承等にも影響力を持つようになり、幕府主導の政治体制を固めました。

「以降、明治維新まで600年以上に及ぶ武家優位を決定づけた『武者の世』を告げる大乱だった」わけです。

 

 この通説に対し、「上皇は討幕を目指していなかった」とする解釈が有力になりつつあるんだそうです。

・実朝の生前の朝幕関係は安定していた。朝廷は実朝に右大臣という高い官職を与えていた。

・「上皇は幕府の軍事力を理解し、実朝死後も幕府を自身の影響下に置くのが得策と考えていた。武士の存在を否定する討幕は治安の悪化につながり、想定していなかった」(坂井孝一教授・創価大)

 

・一方で負担が大きい上皇の政策に対し、全国の武士から反対の声が上がるが、いら立つ上皇が矛先を向けたのが執権の義時。

 挙兵を呼びかけるための院宣の目的は「義時排除」だったが、北条政子のあの名演説で御家人の危機を煽り、蜂起。

 

 もう一つは、昨年、乱の一部始終を描く「承久記絵巻」が個人宅で所蔵されていたことが分かりました。

・全6巻。各巻縦30㎝、長さ15m。

・1939年に京都で開かれた展覧会以降所在不明になっていた。

・軍記物語「承久記」に基づく江戸初期の作品。

・乱前後の出来事を含めて36の場面を鮮やかに伝える。

 一連の資料は4月6日~5月23日に京都文化博物館で開催予定だった特別展は、コロナ禍の緊急事態宣言発令で会期途中で閉幕したそうです。

 絵巻には、肖像画がない義時の姿が描かれているそうですからぜひ見てみたいですね。